Jun 8, 2026 Fragments 散文

池の向こう

by kkyam · 3 min read

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「across the pond」。北米とヨーロッパの人たちが、自分たちを隔てる大西洋を指して使う慣用句だ。カジュアルで気の利いた表現だが、話者やその状況によっては、大洋を掌握して我が庭とする者の自意識が感じられ、かすかな違和感を覚えてしまうことがあった。

そんな引っかかりは、日本の幼稚園や学校で、太平洋を「広くて大きい」と、その向こうの「よその国」は「行ってみたい」場所と、さんざん歌わされたからかもしれない。自分にとって、海はあまりに大きく、対岸は果てしなく遠い。それを「池」という比喩で縮小するのは、やりすぎだと感じるのだろうか。

かつて私は、アメリカの航空会社の成田空港支店に勤務していた。担当は、太平洋の向こうから到着し折り返す国際線の地上業務だった。フライトは一日十数便。北米本土の都市への便はそれぞれおおむね一便だったが、ホノルル行きだけは多い日で四便あり、臨時便が加わることもあった。もちろん自社便以外にも多数のフライトがほぼ同じ路線に就航している。毎日その光景を眺め、提供されている座席数の合計を計算しながら、太平洋を渡る多数の国際路線が世界の長距離航空市場のメインストリームであり、東京―ホノルル線は世界有数の幹線の一つなのだろうと、漠然と思っていた。

その後、イギリスの航空会社に転じた。初めて、ロンドンのガトウィック国際空港を訪れて目にした光景は今でも忘れられない。

ターミナルに踏み込んだ瞬間、まず驚いたのは、人々の密度だった。大荷物を持つ旅行者、ノートパソコンを抱えたビジネスパーソン、ジムウェアの人間。人種も服装も層が厚く、山手線の主要駅の朝のような、日常の質量がそこにあったのだ。

そして、それ以上に私を圧倒したのは、頭上のフライトボードだった。

ニューヨーク、ボストン、トロント、シカゴ――北米の主要都市への長距離国際便が、信じがたい数と頻度で並んでいる。ガトウィックから一日中、数十分おきに、北米のどこかの都市に出発便があると言っても過言ではない。目的地によっては、同時刻に何便もの出発がスケジュールされている。窓の外には、大型機、中型機、ビジネスジェットがひしめき合い、まるで大西洋という空間が、存在しないかのように機能している。

例えばロンドンからボストンなら、往路の飛行時間は七、八時間。帰路は偏西風に乗れば六時間を切ることもある。日帰り出張が非現実ではない距離なのだ。大西洋を渡ることは、彼らにとって長時間の通勤に近い、生活の一部なのだろうか。

そんなことを考えているうちに、私の頭の中の世界地図がガラリと書き直された。

私が太平洋路線を空のメインストリームだと思っていたのは、単に太平洋側の岸辺に立っていたからに過ぎない。世界の航空市場の重力の中心は、どう考えても大西洋にある。ロンドンで言えば、ガトウィックよりも運航規模の大きいヒースロー空港もある。さらには、パリやフランクフルトの国際空港でも似たような光景が広がっているはずだ。夥しい数のフライトが、ヨーロッパと北米の文明を昼夜を問わず繋いでいるのだ。それは、一日数便の日本から北米本土の路線や、観光が主体の「支線」としての東京―ホノルル線などとは、質的にまったく異なる存在だということを理解した瞬間だった。

「across the pond」という表現は、ユーモアではなく、地政学的な実需、現実から生まれていたのだ。彼らにとって大西洋は、文明と文化・生活の軸であり、日常の延長線上にある。

対して太平洋は、今も掌握されることのない、遠い辺境の海なのかもしれない。だとすれば、大西洋が「池」であるように、太平洋は何になるのだろうか。広大な余白か。それとも、別の誰かにとっての「池」か。その問いは、今も空の上を漂い続けている。